歌詞の和訳 No.052
Hatishma Koli ?
ハティシュマァ・コリー?

ハティシュマァ・コリー?
レホキー・シェリー
ハティシュマァ・コリー?
バアシェル・ヒンハー

コル・コレー・ベオズ
コル・コレー・ビドゥミー
ウメアル・ハズマン
メツァヴェー・ブラハー?

私の声が聞こえますか?
遠くにいる人よ
私の声が聞こえますか?
あなたのいるところで

声は力強く叫び
声は私の血の中で涙を流す
そして時を超えて
祝福をもたらすだろうか


テベル・ゾ・ラバー
ウドゥラヒーム・バー・ラヴ
ニフガショット・レダク
ニフラドット・ラアド

メヴァケシュ・アダム
アフ・コシュロット・ラグラヴ
ロー・ユハル・リムツォー
エト・アシェル・アヴァド

この世界はとても広く
そこにはいくつもの道が
つかの間の出会い
永遠の別れ

人は求め
しかしその足はよろめき
見つけることはできない
失われたものを


アハロン・ヤマイ
クヴァル・カロヴ・ウライ
クヴァル・カロヴ・ハヨム
シェル・ドゥマオット・プレダー

アハケー・レハー
アド・イフブー・ハヤイ
ケハコット・ラヘル・レドダー

私の人生の最後
きっとすでに近くに
その日がすぐそこに
別れの涙の

私は待とう
命の終わりまで
ラヘルが愛する人を慕うように




イスラエルダンスを踊る会でかかるこの曲は、オフラ・ハザが歌っているものですが、その他イェフディート・ラビッツリタなどこれまで多くの歌手によってカバーされ、それぞれが個性的に歌い上げています。

曲のタイトルは「Hatishma Koli?」ですが、「Zemer Nuge ゼメル・ヌゲ」(悲しいメロディ)とされていることもあります。

全く同じ歌詞で、曲が違うものもあります。こちらも「Hatishma Koli?」「Zemer Nuge」の両方で呼ばれることがあるようです。



  ▲イスラエルの切手


ゼメル・ヌゲ(その冒頭の歌詞から「ハティシュマァ・コリー」としても知られている)は女流詩人ラヘル(1890-1931)によるもので、1920年代に書かれました。ヘブライ語詩の代表のひとつとされています。2009年、シュムリク・クラウスによる作曲で国の歌の第16位に選ばれています。
 1913年、フランスのトゥールーズ大学で農業を学ぶためにラヘルはイスラエルの地(当時はまだ独立前の入植と開拓の時代:オスマントルコ領)を離れました。大学で技術者として講義を受け持っていたミハエル・ブルンシュタインと出会い、恋に落ちます。一時は結婚も考えていました。翌年、第一次世界大戦の勃発で学業が中断され、ロシアの父親のもとに戻り、孤児院で働きました。大戦後、イスラエルに戻りましたが、ブルンシュタインは彼女と行動を共にすることを断り、ロシアに残ることにしました。その後ラヘルは亡くなるまで彼に会うことはありませんでした。
 イスラエルに帰還してまもなくラヘルは結核に罹患し、(感染を恐れた他のメンバーたちから)キブツ(開拓農村)・デガニヤを去ることを求められます。当時 彼女はそのキブツにメンバーの一人として住み働いていました。彼女はツファットの病院に入院、その後テル・アヴィヴに滞在、そこで「ゼメル・ヌゲ」(ハティシュマァ・コリー)の詩を書き記しました。

ラヘル
 作者自身の名前であると同時に、旧約聖書中の人物ラヘル(ラケル)も指しています。ラヘルはユダヤ民族の始祖である3人の族長のうちの一人ヤァコヴの妻(姉のレアも先にヤァコヴと結婚)となった人物で、ヤァコヴはラヘルとの結婚を承諾してもらうために叔父であるラバンのもとで羊飼いとして働いたと記されています。(旧約聖書『創世記』)
 ヤァコヴは最初からラヘルを妻に望んでおり、ラバンからその見返りに7年間の労働を求められました。ヤァコヴにも、もちろんラヘルにとっても長い時間であったことでしょう。
 晴れて結婚式を迎えたとき相手が姉のレアであることに気づきました。「姉から先に嫁ぐというこの地方の習慣があるから」とラバンから説得されたヤァコヴは、一週間後 妹のラヘルも妻に迎え、しかたなくもう7年間、つまり合計14年間 叔父のために働いたそうです。
 ヤァコヴにはレアとラヘル、他の二人の妻によって12人の息子と1人の娘を設けました。ヤァコヴは父イツハク(イサク)、祖父アブラハムとともにユダヤ民族の父祖と称されています。

踊り方の参考にトゥヴィア・ティシュレル氏振付
  התשמע קולי Tuvia Tishler 2003

イスラエルダンスを踊る会でよくかかる曲「Sham Harei Golan」の歌詞も女流詩人ラヘルの作です。

2023.12.27

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